偉人【北沢楽天・日本漫画史を築いた先駆者】

query_builder 2023/04/06
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北沢楽天 漫画

日本の漫画文化が現在のように根付くきっかけを作った北沢楽天。彼の生涯や業績は、日本の漫画史を知る上で欠かせないものと言えます。政治風刺漫画から風俗漫画まで、多彩な作品を残し、日本初の職業漫画家としても知られています。また、彼が最初に使用した【漫画】という用語は、今や世界的に通用するものになっています。本記事では、北沢楽天の功績や作品・また北沢楽天の漫画販売先についてまで詳しく紹介していきます。

漫画に興味のある方や日本の文化に興味を持つ方には必見です。

北沢楽天とは・・・

北沢楽天の歴史と経歴

北澤楽天 東京パックサンプル

(下記ウェキペディア参考)


1876年(明治9年)、楽天は東京市神田区駿河台(現在千代田区駿河台)に生まれます。

北沢家は代々、埼玉県大宮宿で問屋名主、御伝馬役、紀州徳川家の鷹羽本陣鳥貝役を務めた名家であります。

楽天は洋画を洋画研究所大幸館にて、堀正章から、日本画を父親の保定からそれぞれ学んだが、楽天の漫画家としての人生に最も大きな影響を与えたのは、オーストラリア出身の漫画家【フランク・A・ナンキベル】でした。

1895年、横浜の週間英字新聞「ボックス・オブ・キュリオス」社に入社した楽天は、同紙の漫画を担当するようになりました。


1899年、楽天は今泉一瓢(いまいずみいっぴょう)の後を継いで時事新報の漫画記者となり、【志那の粟餅】で初めて時事新報の紙面を飾った。1902年1月からは、同紙の日曜版漫画欄である【時事漫画】も手掛けるようになります。時事新報時代の楽天が手掛けた漫画としては、【田吾作と杢兵衛(もくべい)】【灰殻木戸朗の失敗】【茶目と凸坊】などが挙げられます。これらの作品はダークスやアウトコールト、オッパーなどのアメリカのコミックストリップ作家の影響を強く受けていました。


1905年には、楽天はB4判サイズフルカラーの風刺漫画雑誌【東京パック】(誌名はアメリカの漫画雑誌【パック】・恩師であるナンキベルが編集長をしていました。)を創刊します。【東京パック】の漫画キャプションには日本語の他に英語及び中国語が併記されており、日本国内のみならず、朝鮮半島や中国大陸、台湾などのアジア各地でも販売されます。同年、楽天は鈴木いのと結婚しました。

1912年に楽天は【東京パック】を出版します。【有楽社】の社主・中村弥二郎(中村有楽)が経営に失敗し版権を手放したことを機に、【東京パック】を退きます。退社後の楽天は、同年に新たな出版社【楽天社】を創設して【楽天パック】【家庭パック】を創刊しますが、この雑誌はわずか1年3ヶ月で廃刊を迎え、【楽天社】も解散となります。



とんだはね子 | 漫画, レトロポスター, イラスト


【楽天パック】終刊後、楽天は再び【時事新報】を自分の漫画活動の中心に捉えるようになります。1921年、時事新報から【時事漫画】が日本最初の新聞日曜漫画版として独立し、楽天は同紙のカラー漫画欄を手掛けるようになりました。【時事漫画】で楽天は【丁野抜作」「物尾雄蔵」「腰野弁三」「欲野深三」などの様々な風刺的な登場人物が登場する漫画を連載していましたが、これらの内で最も特筆すべきキャラクターは、1928年11月4日号から連載された【とんだはね子嬢】です。この作品は、日本で最初の少女を主人公とした連載漫画であり、現代の少女漫画の原型であるとも考えられています。またその他にも、クロスワードパズルを「十字語判断」の名で紙面に掲載させて一大ブームともなりました。しかしながら、この頃から楽天の人気は翳り(かげり)が見え始めます。読売新聞が【読売サンデー漫画】、東京新聞が【東日マガジン】報知新聞が【日曜報知】を刊行するなど他紙が日曜漫画版に相次ぎ参入したことで【時事漫画】は読者を奪われ始め、1931年7月に【漫画と読物】、1932年5月に【漫画と写真】と改題して誌面の刷新を試みるものの、10月に時事新報の日曜漫画版は終刊となりました。そして、その年の末に楽天も時事新報を退社し、事実上第一線を退きました。

楽天は、時事新報間際に芝白金の住宅に「楽天漫画スタジオ」を開き、スケッチ教室を通じて後進の育成に乗り出します。
退社後の1934年には弟子やスタジオに集まった後進のためスタジオを開放し「三光漫画スタジオ」と改名されたが、彼らの要請で引き続き指導しました。

1929年、楽天はフランス大使の斡旋により、パリで個展を開催します。その際、教育功労賞を受賞しました。楽天はその知名度と漫画界への影響力を買われて、太平洋戦争中には日本漫画奉公会の会長も務めていました。戦況の悪化に伴い、楽天は1945年に宮城県達田郡田尻町(現・宮城県大崎市)に疎開しました。

1948年、楽天は大宮市盆栽町に居を構え、新しい自宅を「楽天居」と称します。楽天はここで日本画を描く日々を送りました。
1955年、楽天は脳溢血のため、自宅で死亡します。その翌年、大宮市の名誉市民に推挙され、同市の名誉市民の第一号となります。彼を記念して、彼の旧自宅跡に1966年、大宮市立漫画会館(現・さいたま市立漫画会館)が設立されました。

北沢楽天漫画紹介

漫画販売先紹介

北澤楽天 画像

明治から昭和にかけて活躍した日本の漫画家、北澤楽天についてご紹介します。本名は保次(やすじ)でしたが、楽天というペンネームで多数の政治風刺漫画や風俗漫画を執筆し、当時から高い評価を受けていました。

彼は日本初の職業漫画家とも言われ、その漫画の人気は、現代における「漫画」という用語が広く一般に普及するきっかけとなったとされています。西洋の「カートゥーン」の訳語として「漫画」という用語を初めて使用したのは今泉一瓢でしたが、楽天は「コミック」の訳語として「漫画」という用語を最初に使用したとされています。

楽天は、『時事漫画』や『東京パック』などの新聞や雑誌を中心に活躍し、多数の作品を残しています。また、戦前に発行された『楽天全集』は、幼少期の手塚治虫にも影響を与えた作品の一つとして特筆されています。

北澤楽天は、日本の漫画史を築いた先駆者の一人であり、その功績は現代の漫画文化にも大きな影響を与えています。彼の作品を通じて、日本の風俗や社会情勢を知ることができるため、漫画好きの方はぜひ一度手に取ってみてはいかがでしょうか。


下記サイトから【北沢楽天の時事漫画を購入できます】


販売サイトURL 

https://jp.mercari.com/item/m32818602140

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